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浦和地方裁判所 昭和57年(タ)66号 判決

原告(反訴被告)

甲野太郎

右訴訟代理人弁護士

斉藤英彦

被告(反訴原告)

甲野花子

右訴訟代理人弁護士

太田耕造

主文

一  原告(反訴被告)の請求を棄却する。

二  被告(反訴原告)と原告(反訴被告)とを離婚する。

三  原告(反訴被告)は、被告(反訴原告)に対し、金三〇〇万円を支払え。

四  被告(反訴原告)のその余の請求を棄却する。

五  訴訟費用は、本訴、反訴を通じて、原告(反訴被告)の負担とする。

六  この判決は、第三項に限り、仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

(本訴について)

一  請求の趣旨

1 原告(反訴被告、以下「原告」という。)と被告(反訴原告、以下「被告」という。)とを離婚する。

2 訴訟費用は原告の負担とする。

二  請求の趣旨に対する答弁

1 主文第一項と同旨。

2 訴訟費用は原告の負担とする。

(反訴について)

一  請求の趣旨

1 主文第二項と同旨。

2 原告は、被告に対し、金七〇〇万円を支払え。

3 訴訟費用は原告の負担とする。

4 第2項につき仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1 被告の請求を棄却する。

2 訴訟費用は被告の負担とする。

第二  当事者の主張

(本訴について)

一  請求原因

1 原告と被告は、昭和一四年六月一二日に婚姻の届出をした夫婦であり、両者間には、昭和一五年八月二三日長女春子、昭和一八年七月一四日二女夏子、昭和一九年九月長男秋男、昭和二三年八月一五日三女冬子が生まれたが、長男秋男は昭和二一年に死亡した。

2 原告と被告との婚姻は、昭和一四年六月当時日中戦争下の中国大陸で陸軍嘱託として特務機関に勤務していた原告が、長姉の仲介により佐賀県下で小学校教員をしていた被告と数回文通し合つただけで結婚を決めたもので、上司の許可を得て急遽帰国した郷里の駅頭で初めて被告と顔を合わせ、翌々日には婚礼の式を挙げ、数日後には被告を伴つて再び中国に帰任するという慌ただしいものであつた。

3 中国での原、被告の生活は、前記の長女、二女、長男が次々に生まれたが、被告は長女を妊娠すると間もなく出産のため佐賀県小城町の実家に帰り長女が三歳になつて漸く中国に戻つたことや原告が前線勤務となり治安上家族を残して単身赴任したこともあつて、夫婦として一緒に暮らした期間は中国での約七年間のうち僅か一年間ほどしかなく、しかも戦地にあつて家庭の団欒など全くない状態であつた。

4 終戦後、原、被告ら家族五人は、途中種々な苦難に遇いながらも昭和二一年三月どうにか帰国することができ、原告の本籍地で農業を営んでいる原告の実家に身を寄せ、老父母、傷痍軍人である兄夫婦及びその子供二人と同居して生活したが、そこへ原告の妹乙原静子もその子供二人とともに中国大陸から引き揚げて来て身を寄せるようになり、この状態は昭和二五年五月に原告が実家の援助で近くに家を建てて貰い、その家族とともに転居するまで続いた。そして、昭和二三年三月には三女が生まれた。

5 この間原告は、嘗て中国時代の上司であつた大分県知事の伝手により就職しようと努めたが、履歴書に特務機関歴を記載したため昭和二三年五月占領地行政に携わつたことを理由に公職追放の処分を受け、この処分は昭和二六年九月まで解除されなかつた。

6 帰国後の生活は、生活の総てを原告の老父母や兄夫婦に依存する肩身の狭いものであり、原、被告とも朝早くから日没まで実家の農作業を手伝つて慣れない肉体労働に明け暮れていたが、農作業の経験のない被告は、労働の厳しさや手伝つても食べさせて貰うだけで賃金を貰えないことなどの不満をうつ積させ、原告の実家の悪口を言うようになつた。

そして被告は、原告に対し役場や郵便局のようなところに勤めるようにと責め立て、家族の生活のために実家の手伝いを黙々とやつている原告の人柄や労働に理解を示さず、かえつてあからさまに原告を侮蔑し無能者呼ばわりして幼い子供たちの前でもそれを言動に表わし、原告の兄夫婦の悪口を近所に告げ歩くなどした。

こうして帰国後の原、被告夫婦の間に平和な日はなく、しかも帰国後間もなく長男を病気で亡くしたこともあつて、夫婦の仲は完全に冷えきつてしまつた。

7 昭和二四年頃、被告は自分の箪笥に封印して、原告の承諾もなく勝手に娘三人を連れて佐賀県の被告の実家に行つてしまい、昭和二五年に原告が原告の実家の援助で家を建てて迎えに行くまで一年間ほど戻つて来なかつた。被告は娘三人とともに再び戻つて来たが、新しい家には原告の妹である乙原静子の母子三人も一緒に住むことになつたため、被告はこの点も不満であつた。

8 そして被告の原告に対する侮蔑や無能力者扱いの態度は以前と変わらず、やがて被告が隣村の小学校に教員の職を得て通勤するようになると、自分に現金収入があることを誇り原告に対する態度は一層ひどくなつた。そのため原、被告間に夫婦喧嘩が絶えず、いつ離婚してもおかしくないような状態が続き、被告も「別れてもいいが子供は絶対手離さない。」などと言い、原告と被告との婚姻生活は破綻状態に至つた。

9 原告は、被告との間のこのような婚姻生活についに耐え切れなくなり、原告に対する公職追放処分解除の直後である昭和二六年九月、被告との離婚を決意し被告と話し合つたうえ単身上京した。

10 その後今日に至るまで原告と被告とは生活を全く異にし、何らの交渉もなく事実上の離婚状態にある。

11 よつて、原、被告間には婚姻を継続し難い重大な事由があるものというべきであり、民法七七〇条一項五号に該当するから、原告は被告との離婚を求める。

二  請求原因に対する認否

1 請求原因1の事実は認める。

2 同2の事実は認める。

3 同3のうち、長女、二女、長男が生まれたこと、被告が長女出産のため昭和一五年七月頃実家に帰り昭和一七年夏に長女を連れて中国へ戻つたこと、原告が前線勤務となり治安上家族を残して単身赴任したことがあることを認める。

4 同4の事実は認める。

5 同5のうち、原告が嘗ての大陸時代の上司であつた県知事の伝手で就職しようと努めたことは否認し、その余の事実は知らない。

6 同6のうち、帰国後、原、被告夫婦はその生活を原告の老父母や兄夫婦へ依存していたこと、原、被告とも朝早くから日没まで原告の実家の農作業に従事していたこと、原、被告夫婦には現金収入がなかつたことを認め、その余の事実は否認する。

7 同8の事実は否認する。

8 同9のうち、原告が昭和二六年九月単身上京したことを認め、その余の事実は否認する。

9 同10の事実は認めるが、それに至る経過は、被告が反訴の請求原因で主張するとおりである。

10 同11は争う。

(反訴について)

一  請求原因

1 本訴請求原因1の事実を引用する。

2 原告は、被告と婚姻した当時、中国大陸において陸軍特務機関員の職にあり、中国大陸内の任官地を転々とし、その後中国大陸において終戦を迎え、被告、長女、二女、長男とともに途中様々な苦難に遭いながら昭和二一年三月無事帰国し、大分県にある原告の実家に身を寄せた。

3 被告は、原告の実家において、帰国後から昭和二五年五月まで原告の父母、兄夫婦等と同居し、早朝から炊事及び全く経験のない農作業に従事していたが、それだけでは親子の糊口を凌ぐだけで現金収入がなかつたため、被告は、原告と相談のうえ、干魚、かつお等の行商をして生計を助けた。

4 その間、原告には郵便局等種々の就職の話が持ち込まれたが、原告は、過去の派手な生活の夢を追いかけ、下つ端から働くことはできないなどと申し向けて全く働こうとしなかつた。

5 被告は、人並みの生活を維持すべく教員復帰願いを提出し、これが受け入れられて昭和二五年頃から教鞭をとり、その収入により家計を維持した。

6 原告は、昭和二六年頃、被告が勤めに出ていて留守の間に、幼い子供たちが制止するのを振り切り、被告が運動会用に買つておいた被告の運動靴を履いて家を飛び出し、単身上京した。

7 上京後、被告は原告から二、三回手紙を受領したが、東京都千代田区丸の内所在○○○○保険会社内と書かれていた原告の住所地は架空のものであつた。それから半年後、原告からの音信はなくなり、被告は手を尽くして原告の所在を探したが全く分からなかつた。

8 原告は、上京後現在に至るまで、生活費は勿論、子供の養育費も全く仕送りしないため、被告は必死に働き、女手一つで三人の子供を養育した。被告は、母親であると同時に父親の役割をも果たさなければならず、昭和二八年の大水害のときなど筆舌に尽くし難い辛酸をなめながら子供三人を養育していずれも大学に進学させ、現在は三人とも結婚している。

9 その間、原告は、東京において、現在同棲中の丙山愛子(以下「丙山」という。)の妹と同棲し、妹が死亡するや今度はその姉である丙山と同棲し、全く家庭を顧みることがなかつた。

10 被告は、原告がいつかは自分の許に帰つてくれるものと信じていたが、原告は、昭和五七年一月頃離婚調停の申立をなし、次いで昭和五七年六月三〇日離婚訴訟を提起した。

11 原、被告間の婚姻生活の経緯は以上のとおりであり、前記9の事実は不貞行為に該り、前記6、7の事実は悪意の遺棄に該当し、さらに上京後三〇数年の長期にわたつて夫としてまた父としての義務を放棄して音信を断ち、他の女性と同棲していることについては婚姻を継続し難い重大な事由があるものというべきであるから、被告は、民法七七〇条一項一号、二号及び五号に基づき、原告との離婚を求める。

12 また、右の婚姻を継続し難い事由の発生については、すべて原告において責を負うべきものであり、被告は右の不法行為により三〇数年にわたつて精神的苦痛を受けたから、これを慰藉するため金五〇〇万円の支払を求める。

13 さらに、被告は、娘三人をそれぞれ大学に進学させて卒業させ、昭和三三年から昭和三七年まで長女に毎月金三万円、昭和三六年から昭和四〇年まで次女に毎月金四万円、昭和四一年から昭和四五年まで三女に毎月金七万円の仕送りをしてその合計は金七〇〇万円となるのに、原告は、この当時は生活も安定して養育費を送ることができた筈であるのに一銭の援助もせず、神奈川県相模原市○○三丁目四八三〇番六所在の宅地(一五五・三七平方メートル)及び同地上の居宅(木造亜鉛メッキ鋼板葺平家建、五二・〇六平方メートル)を取得したのであるから、原告が養育費の支払を免れたことにより被告が消極的な形ながら原告の財産形成に寄与した分は、少なくとも金二〇〇万円を下らない。

よつて、被告は、原告に対し、財産分与として金二〇〇万円の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1 請求原因1の事実は認める。

2 同2の事実も認める。

3 同3の事実も認める。ただし、当時の食糧事情からすればいかにして糊口を凌いで生きていくかが最も重大な事柄であつたし、被告の行商も、商売ではなく、長崎県の五島列島に住む原告の知人からときどき分けて貰つたものを商つただけである。

4 同4の事実は否認する。原告は公職追放処分を受けており、また、当時は復員者や引揚者等で人手があまつていたため、他に就職することができなかつたのである。

5 同5の事実は認める。ただし、原、被告家族の生計は原告の実家の援助に負うところが多かつた。

6 同6のうち、原告が上京したことは認めるが、その余の事実は否認する。原告は、被告と事前に話合つたうえで、別居することにして上京したものである。また、原告が被告の運動靴を持ち出したことはなく、実家の養子から貰つた革靴を履いて上京したのである。

7 同7のうち、原告が被告に手紙を出したことは認めるが、その余の事実は否認する。原告は、上京後友人宅を転々として定まつた住所を持たなかつたので、「○○○○有楽町支社」気付で手紙を出したことがある。

8 同8のうち、大水害のことは知らないが、その余の事実は認める。原告は、上京したものの戦後の混乱期にあつて定まつた住居もなく職業も転々とし、その日の生活に追われ自分が食べて行くのがやつとで到底仕送りする余力などなかつた。

9 同9のうち、原告が丙山と同棲していることは認めるが、その余の事実は否認する。

10 同10のうち、原告が離婚調停の申立及び離婚訴訟の提起をしたことは認めるが、その余の事実は知らない。

11 同11は争う。

12 同12も争う。

三  原告の主張

1 原告が丙山と同棲を始めたのは、被告との婚姻生活が破綻した後のことである。

2 原告は、被告に対し、昭和四二年に、婚姻生活を金銭的に清算する趣旨で、原告所有の、大分県玖珠郡玖珠町大字○○字○○○七三〇番一所在の田二一〇三平方メートル及び同県同郡大字○○字○○二三一番二所在の田二九〇平方メートル及び木造平家建居宅一棟(床面積二〇坪)を贈与した。

四  原告の主張に対する認否

1 原告の主張1の事実は否認する。

2 同2のうち、被告が原告から、昭和四二年に、原告主張の田二筆及び家屋一棟の贈与を受けたことは認めるが、その余の事実は否認する。

第三  証拠〈省略〉

理由

一〈証拠〉を総合すると、次の事実を認めることができる。

1  原告(明治四二年二月一六日生)と被告(明治四三年一二月二七日生)とは、昭和一四年六月に結婚式を挙げ、同月一二日に婚姻の届出を了した夫婦であり、両者の間には、昭和一五年八月二三日に長女春子、昭和一八年七月一四日に二女夏子、昭和一九年九月に長男秋男、昭和二三年八月一五日に三女冬子が生まれたが、長男は昭和二一年に病死した。

2  結婚当時、原告は日中戦争下の中国大陸で陸軍嘱託として特務機関に勤務し、被告は佐賀県において小学校の教員をしていたが、両者は、嘗て被告と同じ小学校の教員をしていた原告の長姉の紹介で知り合い、数回の文通の後結婚を決意し、原告が中国から急遽帰国して大分県の原告の郷里の駅頭で初めて会い、その翌々日には結婚式を挙げ、さらに数日後には原告が被告を伴つて慌ただしく中国へ帰任した。

3  中国へ渡つて間もなく、被告は妊娠し、昭和一五年七月には出産のため佐賀県小城町の実家に帰り、同年八月二三日に長女が誕生した。被告は、その後も引き続き実家に滞在し、昭和一七年七月ころ中国へ戻つた。

その後、原、被告間には、昭和一八年七月一四日に二女、昭和一九年九月に長男が生まれたが、原告が前線勤務を命ぜられ治安上の理由から家族を残して単身赴任したこともあつて、原、被告が一緒に生活したのは中国で過ごした七年近くの期間のうち三年間ほどのことであつた。

この間の原、被告の生活は、戦時下の厳しい状況にあり、また、原告の仕事の性質上帰宅時間が遅いこともあつたが、時には夕食会や映画観賞に出かけたりして団欒することもあり、当時の一般の結婚生活と特に変わるところがなかつた。

4  原、被告は、中国において終戦を迎え、長女、二女、長男とともに種々の苦難に遭いながらも、昭和二一年三月無事に帰国し、原告の本籍地で農業を営んでいる原告の実家に身を寄せた。

原告の実家では、原告の、父母、兄夫婦及びその子供二人と同居し、そこへ中国から引き揚げてきた原告の妹乙原静子が出産のためもあつてその子供二人とともに里帰りして来て一緒に生活するようになつた。

そして、昭和二三年三月には、原、被告間に三女が生まれたが、他方、長男は昭和二一年の帰国後に疫痢に罹つて死亡した。

原、被告は、朝早くから晩遅くまで実家の農業に従事し一生懸命に働いたが、それだけでは親子が食べて行くのが精一杯で現金収入を得ることができず、また、被告にとつて農業は初めての経験で慣れない仕事の連続であり、さらに幼少の子供三人を抱え、兄嫁に対する気兼ねもあつて、被告は、昭和二二年には子供三人を連れて佐賀県小城町の実家へ帰り、そこで鰺、鰹の行商をするなどして親子の生活を支えた。

昭和二四年三月頃、原告は実家の援助で実家の近所に居宅を新築して貰つて妹の乙原静子母子四人とともに移り住み、同年五月頃には、被告も子供三人とともにそこへ帰つてきて同居し、原告所有の二反歩余の水田を耕作したり、原告の実家の農作業を手伝つたりして生活するようになつた。

5  この間、原告は、中国時代の同僚である大分県知事の紹介により郷里の地方事務所へ就職しようとしたが、履歴書に特務機関歴等を記載したことから占領地行政に携わつたことを理由に昭和二三年から昭和二六年九月までの間公職追放処分を受けた。

原告が役場や郵便局等へ就職することは必ずしも不可能ではなかつたが、当時は復員者や引揚者が多数おり、原告は、これらの人たちに対する遠慮と原告自身の自尊心、さらには実家が地方の名家で世間体もあることから敢えてこれらの職場へ勤務しようとは欲せず、友人と一緒に商売を始めたこともあつたがこれも失敗に帰した。原告は、農作業に明け暮れるだけの生活に満足することもできず、自らの能力と自尊心に適う仕事に就きたいとの思いに駆られ、鬱々とした気分で毎日を過ごしていた。

6  他方、被告は、現金収入のある生活を希望して教員復帰願いを提出したところ、原告の実家の助力もあつてこれが受け入れられ、昭和二五年四月頃から教員として復職し、その収入により家計を維持するようになつた。

被告は、以前から原告が役場や郵便局のようなところへ就職して収入を得て来ることを望んでいたところ、原告が就職しようとしないのでこれを不満に思つていたが、自分が復職して現金収入を得るようになると原告を軽視し無能力者扱いをするような態度を見せるようになり、時には子供たちの面前で右のような態度に出ることもあつたため、就職について悩んでいた原告を刺激することになつた。そのために原、被告間で口論となることがしばしばあり、それが発展して「もう別れてしまおう。」とか「別れても子供はあんたには渡さない。」とかの夫婦喧嘩に至ることがあり、また、被告は夏休みで佐賀県の実家に帰省するに際し、箪笥に封印をして帰るなどしたこともあつた。

このように、被告の教員復職を契機として、原、被告の間の夫婦仲は気まずくなつて行つたが、しかし、このような状態は、原、被告双方に離婚を決意させる程度に至つていたものではなかつたし、当時両者は同居し、家族揃つて通常の夫婦と変わりのない共同生活を送つていたのであつて、結婚生活が破綻に陥つたと言うところまで冷え切つた状態ではなかつた。

7  ところで、原告は、満足の行く仕事に就きたいとの願いを日毎に募らせていたが、郷里では希望に副う職場が得られそうもないため、友人が上京したことも手伝つて次第に上京することを考えるようになつた。

そして、昭和二六年九月、公職追放処分も解除され、原告は、友人に同行して自らも上京することを決意し、この旨を原告の両親と実兄には告げたものの、被告に対しては、上京することを打ち明けたり、その後の生活、方針等について何ら相談することもないまま、決意した数日後には、被告が小学校への勤めに出て不在の間に、二女が出て行かないように泣いて懇請するのも振り切つて、単身上京した。

8  上京後、原告は、暫らくの間、友人らの住居を転々と泊り歩き、沈没船の引き揚げ、皮革製品の販売等の事業を試みたがいずれも失敗に帰し、その後生命保険会社に勤めるようになつたものの、これも長くは続かず、昭和三二年三月からは○○大学の通信教育部庶務課に主事として就職し、以後は住所も定めて同大学に継続して勤務するようになつた。

9  この間、原告は、上京直後には、被告に対し手紙で東京の様子や近況を伝えたり子供たちに玩具を送るなどし、被告の方も、返信を出して連絡し合い、また、原告は、昭和二七年六月に父親が死亡したため帰郷したが、この際には被告が子供たちとともに住んでいた家に泊り、被告と仕事がうまく行つていないので仕送りすることができないなどの話をしたが、離婚についての話は全く出なかつた。

しかし、原告の東京での住所は一定せず、宛先が定まらないこともあつて、昭和二八年ころには被告が手紙を出しても原告からの返事は来なくなり、被告は、弟や東京在住の姉及びその友人を通じて原告の所在を探し、昭和三〇年ころ、漸く原告が赤羽に居住していることが判明したが、原告が其処で女性と同居している旨の報告を受けたため、以後、原、被告間の連絡は全く途絶えてしまつた。

10  このような状況の下で、原告は、昭和三六年に、丙山と知り合い交際を始めるようになり、同年、仕事で沖縄へ出張した帰途、別府で原告の姉及び長女と面会した際にも、被告に対しては何の連絡も取らずに帰京してしまい、昭和三七年には、丙山と同棲し以後事実上の夫婦として生活するようになつた。

他方、被告は、昭和三七、三八年ころ、原告が丙山と一緒に生活していることを聞き及び非常に不快に感じたが、教員の職にあり、三人の子供の養育及び原告の残していつた後記水田の管理等で多忙な生活を送つていたこともあり、いつの日か原告が玖珠町に戻り一緒に生活してくれることを願いながらも、格別原告の同棲生活を解消させるための努力をすることもないまま、歳月は過ぎて行つた。

11  そして、昭和四二年夏、二女が突然勤務先に原告を訪ね、被告の意向を受けて、原告が玖珠町に残してきた財産の全てを被告に贈与するようにと申し入れた。原告は、被告に対し、上京後三人の子供の養育費を全く送つていないこと及び被告とのこれまでの結婚生活を清算する気持から、これに同意し、原告所有の大分県玖珠郡玖珠町大字○○字○○○七三〇番所在の田二一二五平方メートル(以下「本件水田」という。)、同県同郡大字○○字○○二三一番二所在の田二九〇平方メートル(当時の現況宅地、以下「本件宅地」という。)及び本件宅地上の木造平家建居宅一棟(床面積二〇坪、未登記、以下「本件居宅」という。)を贈与して、同年一二月中には本件水田及び本件宅地の所有名義を被告に移転する手続を了した。

右二筆の土地の価格は、昭和四二年当時、宅地として坪当たり四万円程度であつたが、その後近隣の土地が開発されて市街化区域となり、現在では坪当たり一〇万円以上となつている。

12  昭和二九年以降、原告と被告の間には、右贈与を除いて何の交渉もなく、両者ともに全く別々の生活を営むうちに歳月は経過した。

そして、被告は、種々の苦労を重ねながら女手一つで子供らを養育し、長女を○○大学、二女を○○女子短期大学、三女を○○大学及び○○大学専攻科にそれぞれ進学させ、いずれの子も大学を卒業し、昭和四三年に長女、昭和四五年に二女、昭和五三年に三女が次々に結婚したが、被告は、原告に対し、いずれの子の結婚に際しても嫁ぐ旨を知らせず、結婚式に招待することもしなかつた。

13  昭和五四年ころ、三人の子がいずれも結婚して独立したことを契機に、原告の意向を受けて、原告の長兄が、被告に対し、原告と離婚するように勧めたところ、被告は、財産も全部貰つたし、もう愛情もないから別れても良いと言つて、一旦は離婚することに同意したが、その後、子供らの意見もあつて翻意し、離婚を拒絶するようになつた。

14  そこで、原告は、次第に高齢になつてきたこともあり、被告との婚姻を清算し、長年に及ぶ丙山との内縁関係を法律上の婚姻関係にするため、昭和五七年一月、浦和家庭裁判所に離婚調停の申立をしたが、被告が関節リウマチを患い、寝たきりに近い状態にあることから出頭することができず不調となり、次いで、昭和五七年七月、原告は、本件離婚訴訟を提起し、これに対し、被告も、同年九月、離婚等を求めて本件反訴を提起するに至つた。

以上のとおりの事実を認めることができ〈る〉。

二そこで、原、被告双方の本件請求の当否について判断する。

1  離婚請求について

(一)  まず、原、被告とも民法七七〇条一項五号に基づいて離婚を求めているので、この点について判断するに、前項で認定した事実によれば、原、被告間の婚姻生活が現在完全に破綻していることは明らかである。そして、右破綻が生じたのは原告が単身上京した昭和二六年九月以降のことであり、しかも右上京を主要な原因として婚姻を継続し難い重大な事態が生ずるに至つたものと認められる。従つて、破綻状態の発生につき主として責を負うべき原告の本訴請求は理由がないが、被告の反訴請求は理由があり正当である。

(二)  次に、被告は、民法七七〇条一項一号及び二号に基づいても離婚を求めているので、この点について判断するに、前項で認定したとおり、原告は、上京するに際し、被告に対し、出発予定も行先も告げず、爾後の生活方針について何ら相談することがなかつたのであり、被告が三人の幼い子供を抱え、父親のいない生活を余儀なくされることを熟知しながら、敢えて夫婦、家族としての共同生活を放棄し、独断で上京に踏み切つたものと認められ、結局、被告を悪意で遺棄したものと言うべきであり、また、原告が、昭和三七年ころ、丙山と内縁の夫婦として生活するに至つたことは、被告に対する関係で不貞の行為に該るものと認められ、この点についての被告の請求は、いずれも理由があり、正当として認容すべきである。

なお、原告は、原告が丙山と同棲を始めたのは被告との婚姻生活が破綻した後のことであると主張するが、前項で認定したとおり、原告と被告は、原告が上京した昭和二六年当時、夫婦仲は必ずしも良くはなかつたものの通常の夫婦として生活しており、上京後も連絡を取り合い、昭和二七年に原告が親が死亡したために帰郷した際にも被告宅で近況を話合つたが離婚の話は全くなく、原告の返信が来なくなつた昭和二八年以降も、被告は原告の所在を調査する努力を続けている。また、被告は、原告が丙山と同棲していることを知つた当時も、なお原告が玖珠町に戻り被告や子供たちと一緒に生活してくれることへの希望を捨てていなかつたのであり、被告が原告の同棲を事前に知つていれば、強く反対したであろうことが容易に推認されるのであつて、原告が同棲を始めた昭和三七年ころに、既に原、被告間の婚姻生活が完全に破綻していたことは、認めることができない。

2  慰謝料請求について

右に述べたとおり、原、被告間の本件婚姻関係が破綻するに至つた主要な責任は原告にあるから、原告は被告に対し、これによつて被告が受けた精神的苦痛を慰謝すべき義務がある。

そして、前項で認定した破綻に至る経緯、原告の悪意の遺棄、不貞行為及び婚姻を継続し難い重大な事由の発生、これに対し被告は原告の行動を防止ないし解消するための積極的な措置を殆んど取らなかつたこと、また、〈証拠〉によれば、原告は、現在、神奈川県相模原市○○三丁目四八三〇番六所在の宅地一五五・三七平方メートル及び同地上の木造亜鉛メッキ鋼板葺平家建居宅一棟(床面積五二・〇六平方メートル)を所有しているが、右土地建物を購入するに際しては、購入資金の三分の一を丙山、三分の二を原告が醵出したこと、原告は現在、無職であり、年間金一五万八〇〇〇円の厚生年金、年間金三〇万一二〇〇円の老齢福祉年金、年間金三〇万円の貸間収入、丙山愛子の年間約金三〇万円のアルバイト収入及び年間約金二〇万円の親類からの援助により生活を維持していることが認められ、他方、〈証拠〉によれば、被告は、ここ数年来関節リウマチを患い、殆んど寝たきりに近い状態にあり、三女宅で世話を受けているが、入院することになれば相当額の費用を要すること及び年金に依存して生活していることが認められること、さらに、前記のとおり、昭和二年に原告が被告に対して贈与した本件水田及び本件宅地の価格は、現在では、坪当たり一〇万円以上で、合計金七三〇〇万円以上の価値があること、原、被告が現実に同居した期間等その他本件に現われた諸般の事情を総合勘案すれば、被告の右苦痛は金三〇〇万円をもつて慰謝するのが相当である。

3  財産分与について

前記のとおり、原告は現在、神奈川県相模原市に宅地及び居宅を所有していることが認められるが、右財産形成につき被告が積極的に寄与したことを認めるに足りる証拠はない。

被告は、原告が子供たちの養育費を全く負担しなかつたことをもつて、消極的な形ながら原告の右財産形成に寄与した旨主張し、また、子供たちの養育のために被告が大学を卒業させることだけで金七〇〇万円を要したと主張するが、仮に、そうであるとしても、原告が昭和四二年に被告に対して贈与した本件水田及び本件宅地の合計価額は前記のとおり、現在では金七三〇〇万円以上と認められるので、子供たちの生活費ないし養育費は、右贈与により十分償なわれているものというべきであるから、被告の財産分与の申立は理由がない。

三結論

以上の次第で、原告の本訴離婚請求は、理由がないから失当として棄却し、被告の反訴請求中、離婚請求は、理由があるから正当としてこれを認容し、慰謝料請求については、被告に対し金三〇〇万円の支払を求める限度で理由があるからこれを認容し、その余は理由がないから失当として棄却し、財産分与については、理由がないから失当として棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条但書を、仮執行の宣言につき同法一九六条を、それぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官菅野孝久 裁判官永田誠一 裁判官山内昭善)

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